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旅行者の朝食

旅行者の朝食
【文春文庫】
米原万里
定価 490円(税込)
2004/10
ISBN-4167671026


  岩井 麻衣子
  評価:A
   ロシア語通訳としての失敗談とか、キャビアの話しとか様々なエッセイが盛りだくさんなのだけど、私の心はもう「ハルヴァ」なるものに夢中なのだ。筆者がプラハに住んでいたときに、ロシア人の学友が持ってきてくれた「ハルヴァ」。ニベア・スキンクリームのような青い容器に入ったベージュ色のペースト状のお菓子でこの世のものとも思えないほどの美味しさだったらしい。同じ名前のお菓子はたくさんあったけれども、最初に食べた絶品のハルヴァとはその後出会うことができない。しかも調べていくうちに、正しいハルヴァが作られているのは、今ではもうイラン、アフガニスタン、トルコだけで、高度な技術が必要なことが判明する。それも本物は筆者が食べた絶品よりもさらに絶品らしいのだ。ああ、ハルヴァ。こんななんでも手に入る世の中なのに入手困難なハルヴァ。見たことも食べたこともないのに、どうしても諦められない思いにさせられる。そんな罪つくりなエッセイだったのである。

  斉藤 明暢
  評価:A
   食べ物エッセイというと、選ばれし者のみが味わえる至高の食材と料理人の話とか、誰もが頷く最大公約数的食い物の話、というパターンが多いのだが、本作はそのどちらにも入りきらない部分があると思う。
 味わったことのない食べ物話というのは気持ちが入りにくいものだが、著者の外国体験や海外文化の知識と関係があったり無かったりする食べ物がらみのエピソードの数々は、なぜか面白く読めてしまうから不思議だ。おそらくご本人の実体験は、書かれている何倍も面白くて熱くて「くわっ」と目を見開いている感じなのだろう。
 ちなみに、うんちく話なども数多く収録されているのだが、それをパクって人に話したところ、自分が読んでいたときの面白さの百分の一も伝わらず、非常に哀しい思いをしたことを付け加えさせて頂きたい。

  竹本 紗梨
  評価:A
   作家であり、長い通訳としてのキャリアを持つ筆者。長い海外生活や旅先での「食」が面白いうんちくと共に語られている。このうんちくの知識の深さと食べ物への熱いこだわりがすんなりと同居していて、とても楽しい。トルコ蜜飴やキャビア、フランス料理のコースでの笑い話など、子供の頃テレビで見たような「憧れの外国」感満載なのに、その欲求のストレートさが親しみを持てて、なんだか可愛らしい。本文だけでももちろん楽しめるが、解説の東海林さだおの文章がこれまたいい。本文中にも東海林さだおの名著(シリーズ?)「丸かじり」が出てくるが、丸かじりシリーズで食材や食べ物に対するあの温かい、ある意味こだわり抜いた文体で著者を評している。柔らかい文章と、豊かな知性、とっても美味しい一冊です。

  藤川 佳子
  評価:AA
   「ふふっ」と「へぇ」を何度もつぶやきながら一気に読了。胃袋と脳みそと、笑いのツボをトリプルで突っついてくる、とても刺激的な一冊です! 国際舞台で名通訳者として活躍していた「著者初のグルメ・エッセイ集」。食物の味やそれ自体に言及するというよりは、食物にまつわる著者の思い出や、食物の歴史なんかが面白おかしく書かれていて、いわゆるグルメ本とは一線も二線も画す本です。食べることが好きな人の心の琴線に触れる言葉が満載。もう、頷かずには読めません。とくに「殺生の罪悪感と美味しいものを食べたい強烈な欲望、その矛盾を丸ごと引き受けていくということが、大人になることなのだろうか。(卵が先か、鶏が先か)」なんて、食いしん坊なら一度は考える事ではないでしょうか。食べることが、自我の形成にどれだけ深く関わっているか、よく分かります。ひとつ注意点。これを読むと、絶対「ハルヴァ」が食べたくなるので気をつけて!

  藤本 有紀
  評価:A-
   ロシア語同時通訳という経歴からも、子供の頃プラハで育ったことからも、世界各地で我々の知らない美食を体験してきただろうと思われる著者。それは真実の一面だけを照らしているに過ぎない。旅すれば、まずい物に出会う機会も均等に訪れるわけだ。
ハイジがおいしそうに飲んでいた山羊のお乳の味に、アルバニアでついに巡り合った米原は、それがものすごく腋臭臭いものであることを知る。デザートの生クリームも腋臭味。ハイジと腋臭というイメージを与えられ、頭の中でヨーデルの裏声と腋臭臭い乳製品が同時に渦巻く。うー。話題は異色の食体験記にはとどまらない。プラハで出会った憧れのトルコ蜜飴を皮切りに、それより百倍おいしいハルヴァという菓子を求めて、モスクワで、タシケントで、アテネで、理想のハルヴァを追求する。そしてついに、トルコ蜜飴…タ―キッシュ・ディライト(イギリス)…ラハト(ルーマニア)…ルクーム(トルコ)…求肥(日本)とユーラシア中の飴菓子の進化系を見いだすのだ。もう立派な社会学! この魅力的なタイトルと装丁に、書店で本書を手にとる人の姿を多数目撃したことを報告しておく。

  和田 啓
  評価:A
   どの国の人々にも、その人を故国に結びつける基本的な食べ物があるという。宗教心や愛国心の方向性をも左右する強大な威力を秘めたもの。日本人にとって、それはご飯であると筆者はいう。
 少女時代の五年間を外地で過ごし、その後も仕事柄海外生活が長かった筆者自身の経験に則した食の実感エッセイ集。非アジア圏内を旅しているときに日本食に恋焦がれた人は多いだろう。ラーメンや鰻重、牛丼といった「汁が滲み出てくる系」に我々は特に弱い。空腹は最良のスパイスにして人の想像力は無限である。グルマン米原万里は天晴れなまでに健啖家。その快活さ、あけすけのなさは底抜けに気持ちがいい。贅肉は有事の貯金だとまでいい切る心地よさ。こういう人と友達になりたい。
 量は質に転化する。大食いにも三分の理。巨匠開高健の女版。味覚ほど保守的なものはないというが、新潟人の私として、ご飯とは粘り気と光沢、輝きであると断言したい。