作家の読書道 第164回:東山彰良さん
この7月に1970年代の台湾を舞台にした『流』で直木賞を受賞した東山彰良さん。台北生まれ、日本育ちの東山さんはどんな幼少期を過ごし、いつ読書に目覚めたのか? さまざまな作風を持つ、その源泉となった小説とは? その読書歴や、作品に対する思いなどもおうかがいしています。
その4「南米文学に夢中になる」 (4/5)
――20代でレナードに夢中になった時期があって、30代からブコウスキー時代が始まって...。
東山:今もずっと続いていますね。その後、誰かに僕が書くものがコーマック・マッカーシーに似ていると言われて、それで最初に『血と暴力の国』を読んだんです。あ、その映画化作品の『ノーカントリー』を先に観たのかもしれません。原作を読んだら句読点なく続いていく文章で、その書き方にびっくりしました。そこから国境三部作、『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』を読んで、『ザ・ロード』を読んで。一昨年くらいに刊行された昔の作品『チャイルド・オブ・ゴッド』も読みました。『ブラッド・メリディアン』もありましたね。
――人に言われたように、自分の作品に通じると感じましたか。
東山:僕はコケティッシュな空気をたたえつつ、殺伐としたことが書かれているものがわりと好きなので、そういう意味ではマッカーシーのいくつかの作品は、そうだなと思いました。
マッカーシーを読むようになった後くらいに、たしか教養として読んでおかなければまずいという程度で『ドン・キホーテ』を読んだんですよ。それがむちゃくちゃ面白くて。おそらく音楽でいうところの、ロックとブルースの中間に位置するものだったんです。「スペイン語圏の作家ってすごいな」と思っていて、その後たまたま本屋でバルガス・リョサの『都会と犬ども』と『世界終末戦争』を手に入れて読んでみて、本当に打ちのめされて。それからしばらくリョサの本を読みました。
――『世界終末戦争』などはかなりの大長篇ですが、どこに夢中になったのでしょう。
東山:なんでしょう。どんでん返しのような仕掛けはまったく気にしていなくて、とにかく「永遠に終わってほしくない」と思えるのが、僕にとっていい本なんです。どんなに長くても大丈夫。なんのオチもなくていいから、ずーっとこのままこの文章を読んでいたいと思えるかどうか。そうはいっても僕はスペイン語はできないから、日本語で読むことになるんですけれども。
――どういう文章が好きだったのですか。レナードは軽快だったり軽妙な会話だったりしますし、ブコウスキーはまた違いますし。
東山:そうですね、レナードの描くヒーローは格好いいはずなのにずっこけるような失敗をするところが好きで、ブコウスキーは体臭や酒の臭いを感じさせる、ありのままの感じがよかった。南米の文学が好きだったのは、おそらくですけれど、やっぱりおとぎ話の要素が強かったからですね。フォークロアの要素もある。そういうのがすごく好きなんだと思います。長い長い上等なおとぎ話を読んでいるような気がするんです。
――いわゆるマジック・リアリズム。
東山:そうですね。マジック・リアリズムという言葉も知らないまま、ついにガルシア=マルケスに突入するという。『百年の孤独』はもちろん、マルケスは細く長く、今もずっと読んでいます。南米の作家の本を読んでいると、四次元的な広がりをすごく感じます。時間を飛び越えて死者とも対話できるし、死者が生者の世界に踏み込んでくるし。昔何かの本で読んだんですけれど、中国にも昔々、推理小説みたいなものがあって、でも読んでも読んでも犯人にたどり着かなくて、最後の数ページで殺された人の幽霊が枕元に立って「殺したのはあいつだ」と言って一気呵成に解決する。当時それを読んで「わはは」と笑っていたんですけれど、でも今思うと、何かそういうのが自由でいいんですよ。『百年の孤独』では、すごくきれいな女の子がシーツを干している時に風が吹いてきて空に飛ばされて消えちゃうエピソードがある。それは、実際にマルケスが子供の頃に、未婚で妊娠をしたか何かの不祥事をしでかした女の子が、親戚の家にやられたのか街からいなくなった時、その子のお母さんが「あの子はどうしたの」と訊かれて「風にさらわれて行っちゃったよ」と言ったのがきっかけらしいんです。そういう話って、その場にいたら嘘だと思うじゃないですか。でもその嘘を文章の中に書くと、不思議な味わいというか、手触りが生まれる。しかもどのエピソードにも繋がらないところがよくて。
マジック・リアリズムといえば新潮クレストブックスに『世界の果てのビートルズ』というスウェーデンの小説があって、これも北欧的なマジック・リアリズムというか。伏線が全然回収されないんですけれど、全然気にならない。寒いところの話なのに、何か熱くて、好きでしたね。
――東山さんの『流』にも、当たり前のように狐火や幽霊が出てきますよね。最近刊行された台湾人作家の『歩道橋の魔術師』もそうでしたが、台湾もマジック・リアリズム的な世界が受け入れられやすい風土なのでしょうか。
東山:台湾ではわりと街中に廟がいっぱいあって、老いも若きも真剣に祈っているんです。ちゃんとしないと祟られると言われたり、実際に祟られたという人の話も友達の友達の話としてあったりしました。狐火はじいさんの実体験です。父方の祖父は、生前に父に自分の生い立ちみたいなのを語って書きとらせていたようで、そういう冊子が残っていて。そこに狐火のことも書かれてありました。
そうしたことを小説に書いた時は、読者に受け入れられるかどうか分からなかったんですけれど、でも、自分はこう書きたいし、僕の好きな人たちはこう書いているからいいんだ、と思っていました。
――マルケス以降は、他にどんな作家と出会いましたか。
東山:マルケスが影響を受けていると言うので、カルペンティエルにも手を出しました。『この世の王国』というやつですね。黒人奴隷の話で、世界がひっくり返れば全部よくなると思って暴動を起こして黒人の国を作るんですが、全然思ったようにいい国にはならない。黒人が黒人を搾取して苛めたりして、同胞に支配されるんです。そこから物語が飛躍して、主人公がミツバチになったりアリんこになったりするんだけど、何になっても世界は全然よくならない、という。
それと、リョサとマルケスが1970年代くらいに対談したものをまとめた本があって(『疎外と叛逆』)、そのなかでマルケスが「南米の作家はみんなアメリカのウィリアム・フォークナーの影響を受けている」という風に言っていたので、最近フォークナーに辿りつきました。僕はマルケスを先に読んでいるので、時代的にはフォークナーが先のはずなのに逆に「あ、マルケスっぽいな」と思ったりしますね。
どちらもわりと、どこにも行きつかないエピソードがたくさんあるし、理不尽な死がいっぱいあるんですよね。ちょっと努力すれば回避できることも、その努力をせずに受け入れたりもする。黙って死を受け入れる感覚があるように感じます。でもまだフォークナーは辿りついたばかりなので、『八月の光』と『サンクチュアリ』しか読んでいないんです。
――一度好きになると、とことんその作家の作品を読むタイプですね。繰り返しても読まれていますし。
東山:そうですね。でも「人生で一冊だけすごい本を書いたんだな」と思う作家もいますね。僕にとってはジャック・ケルアックがそうで、『オン・ザ・ロード』を読んで超感動して、他の本も買ってみたんですけれど、どれもあまり響かなかった。
――『オン・ザ・ロード』のほうなんですね。かつては『路上』という邦訳で出ていましたが。
東山:『路上』の時には僕、何度も挫折したんですよ。でも『オン・ザ・ロード』はすらっと読めました。青山南さんの訳がいいんだと思います。アメリカ人作家ではウィリアム・サローヤンも好きでした。他には、友達に薦められてアフリカの作家やジャマイカの作家を読んだりもしているんですけれど、僕の限られた読書体験では、いまだに南米ほどなんでもアリなものは見つけられていないですね。
ほかによく読むとしたら旅行記かな。ずっと前から好きですね。『オン・ザ・ロード』もまあそうですし、ポール・セローの『古きパタゴニアの急行列車』だとか、スタインベックの『チャーリーとの旅』という、プードル犬と一緒にキャンピングカーに乗ってアメリカをうろうろする話とか。これはすごくユーモアがあって楽しかったですね。マーク・トゥエインの『赤道に沿って』も面白かったですね。
――東山さんは青春小説もお書きになりますが、読む側としてはいかがですか。
東山:さきほど挙げた『世界の果てのビートルズ』も青春小説だと思うんですけれど、ロバート・マキャモンの『少年時代』がすごくよくって。マキャモンの『少年時代』をポジとしたら、最近読んだジョー・R・ランズデールの『ボトムズ』はネガ的な青春小説でしたね。カラッと終わらない話でした。
――やはり海外の作家ばかりですね。
東山:ああ、日本人作家も読まないわけではないです。前に人に薦められて読んだ松田青子さんの『スタッキング可能』は面白かったですね。
――人に薦められて読むことが多そうですが、いつもどうやって本を選んでいるんですか。
東山:違うところから2回、お薦めとして同じ作家の名前を聞いたら、縁があると思って読ことにしています。1回目は偶然かもしれないけれど、2回目はきっと偶然じゃないので。