作家の読書道 第163回:仁木英之さん
美少女仙人と駄目青年の冒険を描く『僕僕先生』のシリーズで人気を博し、古代ファンタジーから現代小説まで幅広く執筆活動を広げている仁木英之さん。中国の歴史に詳しいのはなぜ? 次々とエンターテインメント作品を発表している、その源泉は? 人生の転換点のお話をまじえつつ、読書遍歴についておうかがいしました。
その2「北京へ留学」 (2/5)
――すごい。そうやって突き詰められる方だから「アタック25」で優勝できるんでしょうね。でも、そこから信州大学に進学して、中国史を専攻されたのはどうしてですか。
仁木:大学は雪が降るところに行きたかったんです。進路指導の先生に「何がしたいねん」と訊かれて「雪国に行きたいです」と答えたら「お前はアホか」と言われました。
というのも、唯一できる運動がスキーだったんです。父親が山籠もりする人で、他の運動は何もした憶えがないのにスキーだけは毎年毎年行って、スクールにも入れてくれたので人並みに滑れたんです。それに、思春期のアレで、親元から離れたい気持ちもありました。
中国史を専攻したのは、「中国行ったことあるし、『三国志』好きだから中国文学行こか」くらいの気持ちでした。
――大学生活はどのように過ごされたのでしょう。
仁木:中高と何も運動をしていなかったので何かしたかったんですが、自分は球技ができないというのが頭にあったし足も遅かったので、格闘技しかないなと思って。それで芦原会館という極真系の空手のサークルに入りました。いわゆる体育会系の部活ではないので、割と上下関係もきつくなくて、それも合っていました。それで、ひたすら空手と、当時流行っていたスーパーファミコンと、麻雀と、そこに冬はスキーが加わって、そればかりやっておりました。
――仁木さんは中華系のファンタジーもお書きになっていますが、大学時代の勉強が役に立ってはいないのですか。
仁木:大学3年の時に「就職したくない」という理由で中国に留学をしたんです。2年間、北京へ行きました。1993年くらいですね。当時の中国ってまだ今ほど発展していなかったし、天安門の事件の直後だったので飛行機もガラガラでした。
その時に、それまで全然本を読んでいなかったくせに、段ボール5つくらいの分量の本を持っていきました。何万円か餞別をいただいて、それで『柳田國男全集』や、開高健さん、沢木耕太郎さん、椎名誠さんの本を買っていきました。柳田さんの本は「日本を離れて日本を知ろう」みたいな気分があったと思います。沢木さんは『深夜特急』、開高さんも『オーパ!』『もっと遠く!』といった本で、自分も冒険する気持ちがあったんでしょうね。椎名さんも『あやしい探検隊』のシリーズでした。他には陳舜臣さんの『小説十八史略』とか司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』とか『坂の上の雲』とか。とにかく定番の、長いものを選んでいました。
留学時代は遊んでばかりいましたが、それでも本を読む時間はありました。旅行に出る時も2、3冊リュックに入れていきました。旅先で読む柳田さんはすごく良かったです。「自分はやっぱり日本人なんやなあ」と思いました。
――なるほど。留学生活はどんな風に過ごされたんですか。
仁木:ぐうたらした生活を送っていました。向こうでも空手をやっている友達ができたので、昼間はそうやって運動して、夜は違法コピーのプレイステーションで遊んでいました......ひどいですね(笑)。学生寮は日本人が200人くらいいて、あとの200人は韓国人で、少数の欧米人とインドネシア人がいました。授業はあまり真面目に受けずに、結構旅行をしました。チベットのラサまでバスと電車を乗り継いで行ったり、東南アジアをぐるぐる回ったり。当時は円高で、まだ中国との経済格差があったから、わずかなお金でいろんなことができたんですね。楽しかったです。でも、留学していた頃から「いずれこの国に抜かされるだろうな」と思っていました。もう、がめつさというか、力強さが違うんです。何かを得てやろうとか、何かを獲ってやろうというパワーがすごかった。
――今でも北京語は話せるのですか。原書で読んだ本などはあるのでしょうか。
仁木:今も飲み屋のお姉さんと喋るくらいはできると思います(笑)。留学していた頃は、中国語で本を読むなんて面倒くさくてしたくなかったですね。作家になってから、金庸さんという武侠小説の作家の作品を原書で読むようになりました。日本でも徳間書店から『天龍八部』などが訳されて出ていますよ。アクションものです。
あの頃中国語で読んでいたのは、向こうで違法コピーで出ていた『ドラえもん』や『北斗の拳』です。それがすごく勉強になりました。『ドラえもん』は日常的な言葉がたくさん出てくるし、『北斗の拳』では相手を罵倒する言葉、「てめえ」とか「この老いぼれ」といった言葉を中国語でなんて言うかが分かりました(笑)。