第170回:木内昇さん

作家の読書道 第170回:木内昇さん

移ろいゆく時代のなかで生きる個々人の姿をと細やかに描きだし、深い余韻を与える作品を発表している木内昇さん。2011年には『漂砂のうたう』で直木賞、2014年には『櫛挽道守』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、親鸞賞を受賞。誰もが認める実力の持ち主は、少女時代はスポーツ三昧、編集者時代もまったく作家を志望していなかったのだとか。では、どんな本に導かれ、どのような経緯でこの道に進むことになったのでしょう?

その4「雑誌好きが高じていく」 (4/8)

  • ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)
  • 『ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)』
    夢野 久作
    角川書店
    562円(税込)
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――さて、大学時代はいかがでしたか。

木内:いちばん本を読んだのが大学時代でした。その頃に仲良くしていた男の子が夢野久作にハマっていて、勧められた『ドグラマグラ』や『氷の涯』を読んで「変な小説だなぁ」と思って、その後全集を読破しました。ほかには織田作之助で未読のものを発掘して読みましたね。岡本綺堂もこの頃読んで、大ファンになりました。綺堂は幕臣の子なので、江戸弁が本当に生き生きしているんですね。かつ、狐狸妖怪が隣に住んでいるような独特な風味を自然に出せる。いまだにしょっちゅう読み返すのが岡本綺堂ですね。

――狐狸妖怪が出てくるような怪談もお好きですか。

木内:好きです。私、水木しげるが好きだったので。そういえばラフカディオ・ハーン、小泉八雲も小学校の頃に読んでいましたね。

――子供向けの「耳なし芳一」の絵本とかではなく、大人向けの本で?

木内:はい。最初は小泉八雲は日本人だと思っていたんですが、高校生くらいの頃かな、ジョージ・チャキリスがラフカディオ・ハーンの役、つまり小泉八雲の役をやったんですよね、ドラマで。高い机に向かって、棟方志功みたいに原稿用紙に目を近づけて書いていたのが印象的でした。怪談は、小泉八雲が原点だったのかもしれません。あのいかにも日本の湿気みたいなものを外国人が書いていたという驚きもありましたし。

――彼は明治期に日本に来ていろいろ記していたわけですよね。そこで描かれる時代の空気も木内さんの好みにあったのでしょうか。

木内:そうですね。まだ夜は暗い時代ですよね。蛍光灯の灯りがない時代の独特の風味を感じたんだと思いますね。

――ところで大学時代はもうスポーツはやっていなかったのでしょうか。

木内:ソフトボールをやっていました。体育会系のクラブで、大会も出ていたんですが、毎日練習ではなかったです。週4回くらい。土日が試合になることが多かったんですけれど。

――それ充分多いですよ(笑)。ソフトをやり、本を読み。映画や音楽もお好きですよね。すごく影響があったものはありましたか。

木内:映画もよく観ていました。音楽は...ライブはそんなに行かなかったかな。大学が終わるくらいまで、ずっと洋楽ばかり聴いていたので。ポリスとか。ドアーズにはまって、ジャニス・ジョップリンとかジミ・ヘンドリクスとか、1960年代の音楽を聴いていました。でもジャニス・ジョップリンもジミ・ヘンドリクスもジム・モリソンもたしか27歳で死んでいるので、私も勝手に27歳までだと思っていて。1999年に世界が滅びるというノストラダムスの大予言もあったから(笑)、それまでに好きなことをやろうという気持ちが強かったですね。

――ところで大学の専攻はどのように決められたんですか。

木内:高校時代から出版社に入りたいと思うようになったんですね。どちらかというとカルチャー誌やファッション誌をやりたくて、文芸志向はなかったんです。写真もあって読み物もあってという雑誌を作りたかったし、インタビューもしたいなと思っていました。それで出版社に入るためには大学に行かないといけないな、って。で、当時好きだったポリスというバンドに「シンクロニシティー」というアルバムがあって、よく聴いていたんですが、シンクロニシティーという言葉はユングの心理学用語なんですよね。それで心理学をやったんです(笑)。なんか馬鹿みたいですけれど、事実です。

――へえええー。

木内:大学受験を決めたとき、うちでは「なんで女の子なのに大学まで行くんだ」という感じだったんです。だからまあ、好きなことを学ぼう、みたいな。将来性を見通してというよりも出版社に入るには四年制の大学を出ていないといけないな、くらいの感じだったので。

――その頃、どの雑誌が好きだったんですか。

木内:「太陽」や「オリーブ」など、乱読派です。あと、「マルコポーロ」の高橋恭二さんが撮っている表紙にも衝撃を受けました。とにかく雑誌とあればなんでも読んでいました。それほど大好きだったんですね。中には自分の嗜好性に合わないものもあるんだけれど、全部好きって思っていたほうがいいなとも感じていました。批判って簡単で、誰でもできるから、それを内輪でやっていくと業界が縮小していくと思うんです。雑誌もそうで、「雑誌をやりたい」って思っている以上は、安直で知った風な批判に走らず、全部の雑誌をまずは肯定することからはじめないと、という気がしていました。だからさほど好きではない雑誌でも「でもこういう特集いいな」とか「この人のこのコーナーがいいな」という感じでよいところに目を向けて、参考にしていましたね。
好きなジャンルに関しては仲間外れみたいなものを作りたくないのかもしれないですね。それをやるとすごくつまらない方向にいくのが見えるから。日本映画が一時それをやってトーンダウンしたように思います。ハリウッドなどと比べて、監督自身が「日本映画駄目だね」って言いはじめてしまった。でも膨大な予算を組まなくとも、小津安二郎とか成瀬巳喜男とか、日本人にしか撮れないような素晴らしい映画を撮っている監督はいるんですよ。なんでもないような日常のなかの機微を巧みに描いて、世界に誇れる質の高い映画を生み出していたわけです。それに目をつむって批判だけしていっても、なにも生まない。全体がくすんでいくような気がします。駄目だと思ったら、仮に自分一人でも、よい方向に舵を切るべく努めたほうがいいのではないか、と。文句を言いながら、その業界にしがみつくのは変だな、と思って。
もちろん、読者として「この雑誌つまらない」と思うころはあるんです。だけれども、まだ自分が雑誌を作るノウハウを一個も持っていない段階で批判は絶対できなかった。いいところをどうやって見つけていくかという能力のほうが、自分の糧になると思っていたのかもしれません。

――カメラマンやスタイリスト、ライター、デザイナーのクレジットも丁寧にチェックしているんですか。

木内:すごく観ます。いまだに「あのページのスタイリストあの人だよね」と言えるくらい憶えていますね。「モデルはあの子だったよね」とか。で、実際自分が編集者になって一緒に働く機会があったりすると、「あの時あの本に載ってましたよね」って言ったりして。本人は憶えてないくらいのことも言えるくらいにチェックはしていました。

――すごい。スクラップをしていたんですか。

木内:しないんですよ。でも結構憶えているんですよね。やっぱり、雑誌って切り抜くと駄目なんですよ、私の中では。全部はとっておけないし、切り抜いて持っていたい気持ちはありますが、だけど、雑誌全体の意気込みとか特集ごとの力量の差とかが結構誌面にはっきり出るから、それを含めて見るのが楽しかったので1冊として保存したいんです。ページの台割にも編集長の腕が出るじゃないですか。いまだに雑誌もたくさん買いますが、「これは」というものはそのままとってあります。

――どんな雑誌のどんな号をとっておいたのでしょうか。

木内:例えば、岩立通子さんというインテリアスタイリストの方がいて。『ポパイ』のインテリア特集で、山本商店にあるような古い日本家具をうまくレイアウトして男の子の部屋を作っていたのを見た時は、魅力的な発想だな、と思いました。それまではもうちょっと近未来的なインテリアやシンプルなモノトーンが主流だったんだけれども、「古道具でこういうふうに斬新に見せるのは、この人がはじめてではないか」という気がしたんです。
私はその後編集者になった時、「東京二十景」という、30代男性の部屋を取材する連載を雑誌でやりましたが、その時は岩立通子さんとは真逆で、生の空間をそのまま見せようということに腐心しました。岩立さんのインテリアって、テレビがないんです。へんなお土産とか、部屋に干してある洗濯物とかが一切ないのに、しっかり生活感を出せるところが素晴らしいのですが、現実の部屋はもっと雑多ですよね。けっしてカッコイイ部屋ではないんだけど、ここにそれぞれの生活があって、個性があって、みんな一生懸命生きていて、というのを出そうと思ったんです。

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