作家の読書道 第175回:野中柊さん
アメリカ在住の頃に作家デビュー、その後は小説だけでなく翻訳や童話でも活躍をみせる野中柊さん。国内外の小説を読み、映画好きでもある野中さんにとって、何度も読み返したくなるような本とは? デビューの経緯や執筆の思いもあわせてうかがっています。
その2「自意識が芽生えていく頃」 (2/6)
―――中学生になってからはいかがですか。
野中:父が新潮社の日本文学全集を全巻揃えてくれたんです。全50巻くらいだったかなあ? それを適当に本棚から取り出して読んでいました。でも、全巻は読めなかったですね。読んだのは太宰治、三島由紀夫、川端康成、夏目漱石、森鷗外といったオーソドックスなところです。川端が一番好きだったかな、中学生の頃は。魅力的な女性が出てくるなって思っていた気がします。ことに『千羽鶴』が好きでしたね。美しい世界だなあ、とうっとりしていました。でも、その気持ちをシェアできる友達はいませんでした。学校へ行って、「ねえねえ、『千羽鶴』読んだ?」なんて言える感じでは、ぜんぜんなかった。周りの子たちはみんな漫画を読んでいて。だから、わたしも学校では漫画の回し読みをしていました。「別冊マーガレット」が好きでしたね。漫画家では、くらもちふさこさんが大好きでした。『おしゃべり階段』とか『いつもポケットにショパン』とか。女の子の存在感が瑞々しくて。今読んでも充分に楽しめる。漫画で思い出しましたが、小学生の頃は「なかよし」と「りぼん」の両方を読んでいましたね。ピアノの先生の家に行くと漫画がいっぱい置いてあって、自分のレッスンの順番がくるまでの待ち時間に、読んでいたんです。その頃「なかよし」では『キャンディ・キャンディ』が連載されていて、ものすごく人気があったけれど、わたしは断然「りぼん」派で。大矢ちきさんとか、内田善美さんとか読んでいました。大矢ちきさんは『アルジャーノンに花束を』の装丁の絵を描いた人です。彼女の漫画は翻訳小説のような、フランス映画みたいな感じで、大人っぽくて素敵だった。内田善美さんも本当に画力のある方で、ストーリー展開も、いわゆる読者と等身大の女の子が登場するといった類いのものではなく、舞台も現実離れしていて、ちょっと抽象的なところもあって、この2人は別格という感じでした。
――内田善美さんはジャック・フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』のカバー絵を描かれていましたよね。それにしても、小説を読んでいることを学校では人に言えなかったんですか。
野中:言ってもわかってもらえない、と思っていたんでしょうね。ちょうど日本文学全集を読みはじめた頃から、ほかの子たちには決して見せない、内緒の自分を意識するようになった気がします。「この子たちとは、わたしがほんとうに好きで、たいせつに思っていることについて、その気持ちをシェアできない。わかってもらおうとしたら、むしろお友達を失いかねない。気をつけなくちゃ」と思って、なにかをひた隠しにしているみたいな。今思うと、その年頃の子は、みんな、そんな孤独を抱えはじめていたのかもしれないけれど。自我の芽生えって、そういうことなんですよね、きっと。わたしの場合、中学生になると、ひとりで映画館へ足を運ぶようにもなったし。
――深夜劇場ではなく(笑)。
野中:そう。映画館で観るようになったんですよ。それもアート系の映画を。わたしが育った新潟県の新発田っていう、のんびりした田舎の城下町には、映画館がなかったから......いえ、ほんとうは二軒ほどあったんですが、わたしが観たいと思う映画は決して上映されなかったので、学校をさぼって、ひとりで電車に乗って、新潟市内の映画館に出かけるようになりました。親にも友達にも内緒でした。ヴィスコンディとかを観ましたね。
――『ヴェニスに死す』とか。
野中:そうそうそう。中3のときに観たんです。高校受験の数日前でしたが、どうしても観たいと思って。映画館に行っている場合か? 一時間でも二時間でも多く勉強したほうがいいんじゃないかな? と思わないでもなかったけれど、「いや、これを観て受験に落ちるなら、しかたない」と腹を括って。でも、やっぱり行ってよかった。素晴らしいと思いましたね。こんなにも美しい世界があるんだ、と衝撃でした。結局、希望校にも合格したので、高校に入学してからは、ますます映画を観にいくようになりました。いい映画館があったんですよ。そこで、さらにヴィスコンティ監督の『イノセント』や『地獄に堕ちた勇者ども』『ルードヴィヒ』、エルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』や、アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』などを観ました。
――結構さぼっていたんですか。
野中:そうですね。高校はさぼりまくりで、進級するのにぎりぎりの出席日数だったんじゃないかな? 学校へ行かずに映画を観にいくか、家で本を読んでいました。母には「熱があるみたい。体調がわるい」って言うんです。でも、母もわたしが嘘をついていることは見抜いていたと思う。まあ、学校の成績がよかったので、行きたくないのなら無理に行かなくていい、と思っていたようです。正直なところ、わたし、高校にはあまり馴染んでいなかったかもしれない。お弁当を一緒に食べたり、つるんでトイレに行ったりするお友達はいたけれど、学校とはべつの世界がどんどん自分の中に育まれていったので、そっちに傾いていったんですよね。進学校で大学受験を優先的に考える校風だったんですが、この17、18歳っていう、やわらかな感受性の時期に、自分の時間をどう使い、何を吸収するかで、その後の人生が決まると思っていたので、受験勉強なんてやっている場合じゃない、と。だから、受験もしなくていいと思っていたの。でも、東京の大学には行きたかった。まあ、大学じゃなくても、専門学校でもいいと思っていたんだけど。とにかく、もっと映画を観るためには、映画館がたくさんある東京に行かなくちゃならなかったから(笑)。学生だったら、自由になる時間もあるでしょう? 結局、推薦入学で立教大学に進学したんですけれど。