第175回:野中柊さん

作家の読書道 第175回:野中柊さん

アメリカ在住の頃に作家デビュー、その後は小説だけでなく翻訳や童話でも活躍をみせる野中柊さん。国内外の小説を読み、映画好きでもある野中さんにとって、何度も読み返したくなるような本とは? デビューの経緯や執筆の思いもあわせてうかがっています。

その3「大学進学で東京へ、卒業後はアメリカへ」 (3/6)

  • ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
  • 『ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)』
    J.D.サリンジャー
    白水社
    950円(税込)
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  • ホテル・ニューハンプシャー〈上〉 (新潮文庫)
  • 『ホテル・ニューハンプシャー〈上〉 (新潮文庫)』
    ジョン・アーヴィング
    新潮社
    767円(税込)
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  • ガープの世界〈上〉 (新潮文庫)
  • 『ガープの世界〈上〉 (新潮文庫)』
    ジョン アーヴィング
    新潮社
    767円(税込)
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――高校時代に読んだ本をいいますと。

野中:ヘルマン・ヘッセが印象に残っていますね。『車輪の下』や『デミアン』に登場する少年たちの繊細さが好きで。『ガラス玉演戯』にも心動かされました。ちょっと神秘主義的な匂いがすることに惹かれたんだと思います。同じ頃、サリンジャーを読みはじめたけれど、『ライ麦畑でつかまえて』には、まったく共感できなかったなあ。ホールデンって、なんて嫌なやつだろうと腹立たしく思いながら読んでいたの。でも、ホールデンの妹のフィービーは大好き。聡明でお茶目で魅力的ですよね。わたしにとって、理想の女の子像は、フィービーだと言っても過言ではないかも。
ほかには、高校3年生のときに、はじめて村上春樹さんの作品を読んで、素晴らしいって思いました。『風の歌を聴け』です。受験はしなくていいと思いつつも、まったく迷いや不安がなかったわけではないから、その思春期特有の重苦しい空気のなかで、春樹さんの『風の歌を聴け』を読んだら、閉ざされていた窓がぱんっと開いて、涼やかな風が吹きこんできたような感じでした。

――大学は推薦入学ということですが、学部は選べたのですか。

野中:法学部に行きたかったので、その推薦枠があった立教大学を選びました。興味の向かう先が小説や映画に偏っていて、わたしにはあまりにも社会性がないと思い、法学部で勉強すれば、もしかしたらバランスが取れた人格が養われるかもしれないと期待して。

――そして東京生活を始めてみて、いかがでしたか。

野中:映画見放題(笑)。80年代後半ですから、今と違って名画座がたくさんありました。池袋には文芸坐、高田馬場には早稲田松竹、東京の八重洲には八重洲スター座があって、五反田にも五反田シネマがあった。とにかく、あちこちの名画座を渡り歩いて暮らしていました。700円から1000円ほど出せば、2本立て、3本立てを観ることができたんですよ。ほとんど一日中、映画館の暗闇の中にいる、みたいな。たぶん大学よりも映画館に熱心に通っていたと思う(笑)。

――法学部で社会性を身に着けるはずだったのでは(笑)。

野中:そうですよね(笑)。身につけようと思って、身につくものじゃないですね。

――映画を観てその原作を読むなど、読書に繋がっていったことはありますか。

野中:小説を読んでから映画を観る、ということは何度かありましたが、おおむね失望していた気がします。小説の映画化って無理だなって思っていましたね。小説の心理描写の細やかさに、映画はどうしたってかなわないでしょう? 『風と共に去りぬ』にしても、小説を読んでから映画を観たら、「なんだ、小説のほうがはるかに面白いじゃないの!」と思ってしまいました。まあ、あの映画はキャスティングが絶妙だったから、小説とは別ものとして楽しめると思いますが。
大学時代にジョン・アーヴィングをよく読んでいたんですが、『ホテル・ニューハンプシャー』と『ガープの世界』については、小説も映画も素晴らしいと思っていました。そういえば、大学時代はサリンジャーやカポーティ、フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァーを愛読していたなあ。

――村上春樹さんが好きな作家ばかりですね。

野中:ジェネレーションってことじゃないかな? 時代の空気ってありますよね? 当時、わたしが親しくしていたアメリカ人の交換留学生も、まさしく同じ読書傾向でした。彼はピンチョンやデリーロ、フィリップ・K・ディックも好んで読んでいたけれど。
時代の空気といえば、その頃、映画だったら、ヌーベルヴァーグが好きでした。ゴダールやルイ=マル、トリュフォーの作品が必ずどこかの映画館で上映されていたんですよ。アンナ・カリーナやジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドー、フランソワーズ・ドルレアック......女優さんたちがほんとうに素敵で、お洒落で、独特の雰囲気を纏っていて。彼女たちに憧れていました。それから、ゴダールの色彩感覚も大好きだった。映画そのものは難解でも、色や構図、音楽の使い方にうっとりしていました。

――その頃は将来どうなりたいって思っていたんでしょうね。

野中:やっぱり作家になりたいと思っていました。まるっきり何も書いていなかったんですけどね。習作みたいなものすら、書いていなかった。小学生や中学生の頃には、もうお話を書いて友達に見せていたという作家も少なくないでしょう? でも、わたしは手紙や日記を書くのは好きだったし、仲良しの友達と交換日記をしていた時期もあったけれど、物語を紡ぐことは全然やってませんでしたね。それでもなお、作家になろうと思っていました。

――そこまで映画が好きだったのに、やっぱりやりたいことは文章だったんですね。

野中:映画は共同作業でしょう? わたしはひとりでこつこつやっていく作業のほうが性に合っているとわかっていたんでしょうね。正直なところ、書くこと以外に、自分にできることがあるとは、とても思えなかった。なにひとつ書いていなかったにもかかわらず、です。なにか行動を起こすときには、心のどこかで、いつも「これは作家になるために必要なこと? いずれ書くときに役に立つこと?」と自分自身に問いかけていました。
高校時代に「受験はしない」と思っていたように、大学時代は「就職はしなくていい」と考えていました。で、実際、就職活動はまったくしなかったんですよ。わたし、成績は悪かったんですが、3年生のときに卒業に必要な単位はすべて取っちゃったので、4年生のときには、ぜんぜん授業に出席しなくてよかったの。だから、とりあえず、海外に行ってみようと思って。ヌーベルヴァーグが好きだったから、パリに行くことにしました。季節は初夏、すごく気持ちのいい時期にパリの下町のアパルトマンに2ヶ月半滞在して、映画を観たり、美術館巡りをしたり、知人のパーティーに行って、いろんな人たちと出会ったり、美味しいものを食べたりしているうちに、ほんとうに心は決まって、「うん。やっぱり、就職はしなくていい」と思ったんですよ。アルバイトをして長期の滞在費用を貯めて、またパリに行くつもりでした。とにかく、あの街で1、2年暮らしたら、きっと何かを吸収して、いよいよ書きはじめるのだろうという気がして。帰国後さっそくアルバイトに励んで、卒業間近にアメリカのバークレーへ2ヶ月ほど遊びにいっちゃったりもしたんだけれど、戻ってきてまたバイト生活をして。大学卒業後、派遣会社に登録して某大手銀行の外為部門で働きはじめたら、思いのほか、お給料がよかったので、自分でもびっくりするほどあっさりと目標金額が貯まったんです。ところが、よーし、じゃあ、パリへ行くか、と作戦を練っていたら、大学時代に知り合った、交換留学生として来ていたアメリカ人の男の子に、「僕と一緒にアメリカへ行かない?」と言われちゃって。「えっ。フランスじゃないの? 予定と違う」と思ったんだけれど(笑)、彼とは熱烈恋愛中だったので、断るなんて思いも寄らなくて、ツーリストヴィザで、ぎりぎりいっぱい半年、アメリカで暮らしました。その後も2年ほど日本とアメリカを半年ずつ行ったり来たりを繰り返してから結婚して、アメリカに腰を落ち着け、その後、1年ほどで海燕新人文学賞をいただいてデビューしたんですよね。だから、まあ、結果だけみれば、思惑通りというかなんというか(笑)。

  • COSMOS 上 (朝日選書)
  • 『COSMOS 上 (朝日選書)』
    カール・セーガン
    朝日新聞出版
    1,728円(税込)
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――そうだったんですね。アメリカのどちらに。

野中:彼がコーネル大学の院生だったので、ニューヨーク州のイサカという学園都市で暮らしていました。マンハッタンから車で5時間もかかるところなんですが、避暑地で、森あり、湖あり、川あり、渓谷あり、の気持ちのいい土地です。裕福層のニューヨーカーたちが素敵な別荘を持っていたりして。コーネル大学の他にもカレッジや音楽院もありました。ナボコフが『ロリータ』を書いたのは、イサカなんですよ。彼はコーネル大学の教授でしたから。わたし、ナボコフの大ファンなので、彼が住んでいた家も住所を調べて見にいきました。引越し魔だったようで、小さな街に、彼が暮らしたことのある家っていうのが何軒もありました。どれもこぢんまりとした、趣味のいい瀟洒な家でしたよ。わたしに英語を教えてくださっていた老婦人が、ナボコフのお友達だったことがわかって、驚いたこともありました。少人数のクラスだったんだけれど、なんの気なしに、わたしが「読書が好き。ナボコフが好き」と言ったら、「あら。私、ナボコフのお友達だったのよ」とおっしゃるから「ひゃー!」って。その方の旦那様がやはり教授だったらしくて、それで、お付き合いがあったみたい。生前のナボコフについてあれこれエピソードをお話ししてくださって、楽しかったですね。
それから、ピンチョンもコーネルの学生だった時期がありますよね。当時、わたしが結婚していた彼が大学で借りてきた本の図書カードに、ピンチョンの直筆のサインを見つけた、なんてこともありました。まだ作家になる前の、無名の頃のピンチョンの直筆サイン。でも、彼ったら、その本を図書館に返しちゃったんですよ。どうして、こっそり盗まないの? って思いました。わたしたち、彼の奨学金で生活していて、ものすごーく貧乏で、常々お腹を空かせていたから、そのレア本がマニアに売れたら、ダウンタウンに繰り出して、チャイニーズフードかなにかを思いきり食べられるのになあ、なんて思ったんですよね。
ほかにも、天文学者で、『cosmos』の著者のカール・セーガンの家もあったなあ。ご自宅に立派な天文台があって、うわあ、さすがだなあ、あそこから星を眺めてみたいなあ、なんて、彼の家のそばを通るたびに思っていました。

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