作家の読書道 第175回:野中柊さん
アメリカ在住の頃に作家デビュー、その後は小説だけでなく翻訳や童話でも活躍をみせる野中柊さん。国内外の小説を読み、映画好きでもある野中さんにとって、何度も読み返したくなるような本とは? デビューの経緯や執筆の思いもあわせてうかがっています。
その4「原書で読んで好きだった作品」 (4/6)
――その頃は読む本は日本語だったんですか、英語だったのですか。
野中:とにかく英語上達のため、英語の本を読むようにしていました。無理な背伸びはしなくていいと思っていたから、自分の能力に合わせて、子ども向けの読み物を。"くまのプー"は、どうしてか日本語訳に馴染めなくて、何度も読みかけてはやめていたんですが、はじめて原書で読んで、なんて素晴らしいんだろう! と。言葉遊びやリズムが楽しくて、大好きですね。ロアルド・ダールも、まずは英語で。"チャーリーのチョコレート・ファクトリー"とか。
――『チョコレート工場の秘密』ですね。
野中:そうそう。ロアルド・ダールのお茶目な毒々しさにわくわくしました。『チョコレート工場の秘密』から入って、ダールの子ども向けの作品はほとんど読破したんじゃないかな? あとは、カニグスバーグも好き。岩波少年文庫に『クローディアの秘密』や『ティーパーティの謎』など翻訳がありますよね。マージェリー・ウィリアムズの『ヴェルヴェットのうさぎ』も大好きな作品。読むたびに、脳のどこかが壊れちゃったんじゃないか、と心配になるくらい涙が出ます。日本では、酒井駒子さんの素敵なイラストで『ビロードうさぎ』のタイトルで出ていますよね。ほかにも何冊か翻訳があるでしょう? 名作なんですよね。
英語で子ども向けの本を読むことによって、大人になってから、もう一度、子どもに戻ったみたいな読書体験ができたのは、すごくいいことだった、得がたい時間だったと思っています。アメリカで暮らしていた数年は、読書だけでなく、ほかのさまざまな意味合いにおいても、子ども時代をふたたび経験しているような日々だったんですよ。つまり、あの頃、わたしは、子どもみたいな万能感と無力感を併せ持っていたので。なにしろ若かったから、未来は無限大に広がっているような気がしていて、わたしはまだ何者でもない、だから、何者にもなれる、という万能感を持っていたの。だけど、その一方で、実際の生活では、からだがちっちゃいからよく子どもに間違えられていたし、英語もうまく使えない、お金もたいして持っていない、仕事もしていない。「アメリカで何をしているの?」と訊ねられても、首を傾げて「なんにも」って答える以外になかった。ふらっと、どこかに行ってしまいたくなっても、車の運転もできない。その無力感。子どもの頃って、こんな感じだったな、ああ、はやく大人になりたいなあ、なんて思いながら、くまのプーや、ロアルド・ダール、カニグスバーグを読んでいたんですよね。同じ作品でも、日本で生活して、日本語訳で読んでいたら━━いえ、原書で読んでいたとしても、あの「子どもに戻ったみたいな気持ち」は味わえなかっただろうと思います。でも、子どもでさえない、というのが、ほんとうのところでしたが。
今でも忘れられないのが、あるパーティーでのこと。彼のお友達が開いたピクニック・パーティーに参加したら、皆さん院生だから、アカデミックな難しい話をしているわけですよ。はじめのうちは、わたしも聞き役に徹しているだけでも英語の勉強になるんだから、と話の輪に入ってにこにこしていたんだけれど、途中で、やっぱり無理、ついていけない、つまんない、と思って、今度は大人たちが連れてきた子どもたちの輪に入ってみたら、「昨日のセサミストリート見た?」とか、「クッキーモンスターとビッグバード、どっちが好き?」とか、なんか可愛いし、面倒じゃなくていいな、と楽しい気持ちになったんですが、しばらくしたら、ふと、どうしようもなく虚しくなって、結局、わたしは大人たちの輪にも、子どもたちの輪にも入れない、どこにも属せない、と疎外感を覚えつつ、ひとりでとぼとぼ草原の奥へ奥へと歩いていったら、男の子がひとり、サッカーボールを蹴りながらついてきたんです。ほんと、どこまでもついてくるから振り向いて、でも、わたしもすっかり機嫌がわるくなっていたので、ちょっと睨むみたいにして、「どうして、ついてくるの?」って訊いたら、「だって、心配なんだもん」って。
――それはぐっときますね。
野中:10歳くらいの男の子でしたね。わたし、童話を書くときは、あの男の子に向けて書いているの。でも、考えてみれば、彼だって、今はもう30半ば過ぎになって、子の父になっているかもしれない。それこそ、10歳くらいの息子がいるかもしれませんよね。
――児童書以外で、原書で読んだものといいますと。
野中:ケルアックの『オン・ザ・ロード』は、すごく印象的でしたね。決して上手い文章ではないでしょう? でも、文体に熱があって、勢いがあって、びゅんびゅん飛ばしている感じがすごいなと思って。もともと好きだったカポーティやサリンジャーも読みました。サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』はピンと来なかったと言いましたが、グラース家のサーガは大好き。『フラニーとゾーイ』は何度も読みました。フラニーって、すごく魅力的な女の子だと思う。彼女の真似をして、わたしもバーに行ったらオーダーするのは、かならずマティーニ。それも、ぜったい、オリーブを添えてもらって。ときどき、マティーニにオリーブを入れないのが自分の流儀だと主張するバーテンダーさんがいるけれど、なんとか説得して、入れてもらうことにしています。
――そうしたアメリカ生活のなかで、ご自身も本格的に小説を書き始めたわけですか。
野中:結婚してまもなく、月々1000ドルほどの彼の奨学金だけで、夫婦ふたりで暮らしていくことに困難を感じて、わたしもお金を稼がなくちゃいけないと思ったんです。でも、働き口がないの。大学の先生から、対談や鼎談や講演会があったときにテープ起こしのお仕事をいただいたり、日本語のチューターをしたり、ベビーシッターをやってみたりもしたんですが、もうちょっと何かないかなと思って、「そうだ、小説を書こう」って。新人賞に応募すれば賞金がいただけるわけだし、もし本が出版されれば印税も入るわけだから「よし、今こそ書くべきだ」って。
――応募先を海燕新人賞にしたのはどうしてですか。
野中:コーネル大学には、ときどき、名のある評論家の方々が、日本から客員教授としていらしていたんです。ある評論家の奥様が詩人で、わたし、彼女が大好きで、頻繁にお宅へ遊びに伺っていたんですが、あるとき、「作家になりたいの」と言ったら、「書いているの?」と訊かれ、「ぜんぜん書いてない」と答えたら、「書かなければ、作家にはなれないのよ」って(笑)。「書かないんだったら、もう遊んであげない」とさえ言われて、またお会いしたい一心で、3枚ほど書いて見ていただいたら「じゃあ、この調子で続きも書いてきて」と。それがデビュー作の『ヨモギ・アイス』になりました。書きあがったものを、文芸誌『海燕』の新人賞に応募したのは、作品の完成度よりポテンシャルを評価してくれそうな気がしたし、新人作家のアフターケアに熱心だと聞いていたからかな?
――最終選考に残った連絡や選考会の結果も、時差があるなかでのやりとりだったわけですよね。
野中:最終選考に残ったタイミングに、たまたま日本に帰国していたので、実家で電話を受けたんです。編集長から「楽しみに待っていて」と言われた記憶がありますね。新人賞を逃しても、「最終選考に残った者です」と言えば、きっと次の作品も編集者に読んでもらえるだろうと思って、選考結果が出る前に、新しいものを書きはじめていました。受賞のお知らせをいただいたときには、もうほとんど書きあがっていました。「これ、次回作です」と原稿をお送りしたら、すぐに読んでいただけて「面白いね」って、また『海燕』に掲載されて。だから、わりとすんなり、その2作を合わせて最初の本が刊行されました。新人賞を受賞したからといって作家になれるわけではないと認識していたので、とにかく書き続けなくちゃ、と思っていました。